2006年5月23日から30日まで、ボツニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエへ巡礼の旅をしました。
オーストリア航空でウィーンから首都サラエボに着くと、
大柄なクロアチア民族のクラウディアと、屈強そうな運転手のアントンが迎えにきていました。
サラエボからミニバンで2時間半、話しの大好きなクラウディアとおしゃべりをしながら、
彼女の実家でもあるペンションポルタに向かいました。
その日の到着は、深夜12時近くになりすぐにベッドに横になりました。
翌朝、周辺の農家から一番鳥の声が聞こえてきました。
ペンションに沿って這えている大木からは、小鳥たちの声が聞こえ始めました。
窓を開けてベランダに出ると、一面のブドウ畑の奥に、白い教会が尖塔を一本だけ天に向けています。
写真で見慣れた日本の尖塔でないので一瞬戸惑いました。
教会の真横なので、奥にもう一本の尖塔が隠れているのです。
『偉大すぎる真理は隠される』」と言う言葉を思い出してしまいました。
教会の奥には、なだらかな山が広がっています。
右の山の上には十字架がかすかに見えています。
あそこが十字架山なのでしょう。空の広い、のどかな田園風景です。
教会周辺の賑わいまでは、ブドウ畑の間に続く道を、遠くに教会を眺めながら15分あまりの散歩です。
今日の、英語のミサは10時からです。教会前には世界中の人々が集まってきていました。
人々に混じって教会の中にはいると、近代的な(飾り気のない)巨大な空間が待ち受けていました。
司祭の方々が壇上に参集し始めています。
正面右手には、聖母マリアの彫像が置かれ人々が祈り始めています。

ミサの祈りは、いつものように過ぎ、周辺に座っている人々と握手やハグを交わし始めました。
白人系の太ったおじさん。白髪のやせたおばさん。黒人の太ったおばさん。
握手しながら、アイ・コンタクトをしているうちに、感激が目頭を潤ませ始めました。
みんな平和を望んでいて、世界の各地から集まってきているのです。
ここは、人種の曼荼羅なのです。
「みんな違って、みんな良い。」金子みすずの歌が、実践されている一刻でした。
自分が東洋から来た「黄色いおじさん」だということも忘れてしまっていましたが・・・。
六人の子供たちが、聖母マリアを見た丘は「ご出現の丘・The Hill of Apparition」と呼ばれています。
下にブルークロスとマリア像、上にはマリア像があり、多くの人々が気軽に来ては、瞑想や祈りを行っていました。
私たちも世界から訪れている人々と共に、ゆったりとした瞑目の時間を過ごしました。
今の世界の混乱を止めるには、瞑目、瞑想、祈りしかないのではないでしょうか?

翌日は早朝より十字架山登山です。
登山口までタクシーで行き、歩き始めました。
ごつごつした岩の上を何歩か歩くと、革靴がそろえておいてあります。
「なんじゃこれは?自殺したのではあるまいし・・・?」
不思議に思いながらも歩みを進めました。
山頂に大きな十字架があるこの山は、イエスが十字架の上で処刑された状況を追体験する修行の場になっていました。
頂上までの途中に14本の十字架があり、そこで祈りを捧げながら登ります。
下山する人々にすれ違うと、一部の人が痛々しそうに歩いているのを見て気付きました。
靴を履いていないのです。
魂が真の存在で、肉体(五感・煩悩)は仮のものに過ぎないのですから、
五感(眼・耳・鼻・舌・身)の誘惑や苦しみを遮断しないと、真の神性は得られないのです。
一定期間の断食や瞑目は五感が喜ぶものを遮断することになります。
そしてこの場所では、足の痛みとの戦いなのです。
日本でも、水行や滝行、茶断ち、塩断ちなどをして、神仏と一体になる(神仏のメッセージを受ける)修行法があります。
自己犠牲を超えてこそ、聖なるものとのコンタクトが可能になるのです。
 祈りの言葉の代わりに、般若心経をあげながら、13本の十字架をクリヤーしました。
1時間ぐらいの時間がかかりました。
澄んだ青い空と、白い十字架が見えてきました。
 20人ぐらいの白人系の集団がリーダーの合図で、十字架を仰ぎながら祈りを始めました。
十字架の下では、ひざまずき祈りを上げる人々もいます。
アフリカ系の集団が頂上近くにやって来ました。
若者が多いこの集団を、私たちは先ほど追い抜いて来たのです。
頂上直下の岩場には手すりが十字架を(天を)目指すように伸びています。
次々にその道を歩み始めると、素足で歩み続けてきた黒人の若い女性も、
しっかりと十字架を見つめ、心の中の存在と語り合っています。
 彼らの何人かが、突然四つんばいになりました。
赤ちゃんのようにハイハイしながら歩み始めたのです。
彼らの背中には、目に見えない十字架が背負われていました。
黒人として生まれたという、カルマ(ハンディキャップ)の十字架です。
 そばの若者は十字架をじっと見詰め、静かに歩み続けます。
祈りは個人のものなのです。
どのように祈ろうと、その人が神と対話しているのです。
|