|
||
もし、ブッシュに父親に対するトラウマがなかったら、フセインは今も安穏と暮らしていることだろう。 人間の意識の方向が少し違っただけで、現象は時間と空間を超えて大きく変わってしまう。 「そこに月が存在するから我々は月を見るのか、あるいは我々が月を見るからそこに月が存在するのか」 これは、相対性理論で有名なアインシュタインが、インドの大詩人タゴールを訪れた際に交わされた問答である。 時は1930年、量子力学が物理学会に台頭する中で、ひとり敢然と量子力学に反旗を翻していたアインシュタインは、 量子力学以前のニュートン力学の時代までは、自然科学の対象の中に我々観測者は登場しない。 1900年代初頭に量子力学が提唱されるようになって、初めて自然科学という舞台の上に、観測者も登場することになる。 あの偉大なアインシュタインでさえ、自然の絶対的な客観性を疑うことが出来なかったのだ。 これは、西洋的科学観が、何百年もの間、物に囚われてきたことを表わす例であり、 |
||
自然科学はこれまで何世紀もの間、物を分割して行った先の究極の粒子を探そうと努力してきた。 分子や原子が見つかり、さらに分割してゆくと原子核と電子が見つかり、原子核を分割すると陽子と中性子が見つかった。 量子力学が生まれて、それまで粒子と思われていた電子や素粒子にも波動性があることが初めて発見され、 その証拠に、西洋科学は、電子や素粒子の波動性を説明するために、確率の波を持ち出さなければならなくなってしまった。 このニールス・ボーアに代表されるコペンハーゲン解釈において波には実体がなく、あくまでも実態は粒子なのである。 なぜ波束の収縮が起こるのかは、コペンハーゲン解釈ではいまだに説明がつかないにもかかわらず、 コペンハーゲン解釈において、確率の波とはいったい何なのか、なぜ波束の収縮が起こるのかは、 この段階で、もはや量子力学には、形而上学的魅力は全くない。 なぜ、波動性こそ本質なのだと彼らは言えないのだろうか? また量子力学の有名な原理に、ハイゼンベルグの「不確定性原理」というものがある。 ここでもハイゼンベルグは粒子性にこだわっているが、不確定性原理こそ実は波の性質なのである。 いろいろな波数の波を混ぜると、非常にシャープな局在した波になり、混ぜ方を減らしてゆくと波は裾野を広げてゆく。 いろいろ波数の波を混ぜるという事は、速度が定まらないことを意味し、 自然の実態が波だからこそ、不確定性原理が成り立つのである。 西洋科学は、どうしてここまで粒子性にこだわるのか? それは、西洋的思考においては、物質への執着が強く、そのことが世界観にまで影響しているからである。 それまで波であると考えられていた光に対してさえも、アインシュタインは1905年に光量子仮説を持ち出し、 |
||
光がどのように見えているのかということを考えたとき、形而上学的な意味で、この世界の本質が見えてくる。 夜空を見上げたときに、満天の星が一瞬に目の中に飛び込んでくる。 まず考えられるのは、海の波のように、星から出てきた光が連続的な波として伝わってきて しかしこんな単純な仕組みでは、我々は何億光年も離れた星の光を見ることは出来ないのは明らかである。 そんな僅かなエネルギーの光を夜空を見上げたその瞬間に知覚できるとは到底考えられない。 では、アインシュタインが言ったように、ゴルフボールのような粒子として光が飛んできて、 一見この仕組みなら夜空を見上げたその瞬間に星が見えることを説明できそうだが、 例えば、関東地方に満員電車のように人をぎっしり詰め込んで、号令の元、皆が一斉に夜空を見上げたとしよう。 ピストルから発射された弾は、撃つときの手元の角度がわずかにぶれただけで、 何億光年も離れた星から発射された光の粒は、地球上に届くまでの間に、かなり拡散するであろうから、 現代科学ではこういった光を見るという単純な現象についても、 この答えは、光のエネルギーの式の中に隠れている。その数式のエッセンスは次のようになる。 観測者から見た場合、全空間そして全時間の光源の光が、 そしてあらゆる光源とあらゆる観測者との間においてこの包み込みが起こっているのである。 このように全空間、全時間の光の情報が、一点に包み込まれているからこそ、 さらに言えば、この光を見る仕組みは、レンズの例で示されるような光源と観測者との間の一対一の対応関係ではもはやなく、 さらに、この球面状の波を実態のある波であるとすると、観測することによって、この波は、 これは一見粒子のように見える。 この世界は、西洋的自然観が言っているような、粒子という「部分」が集まって「全体」を構成しているのではけっしてなく、 キーワードは、「無限次元マトリックスによる多対一の変換」、「全空間、全時間の一点、一瞬への包み込み」、 これは、仏教、とりわけ華厳経の中で述べられている世界観と驚くほど酷似している。 華厳経で言うところの、「一即多(あるいは一即一切)」、「毛穴の中に世界を、一瞬の中に永遠を見よ」、「実在としての心」、 華厳経では、万有は縁(条件)によって生じる、つまり一切のものが関係の上に存在している事実を凝視し、 そして、過去から現在未来へ、その三世が夫々に過去現在未来の三世を抱きかかえて流れ続く永遠が、 タゴールを訪れたアインシュタインの心境はいかなるものだったのか。 量子力学は、自然科学にとって大きなパラダイムシフトだった。 ただその解釈において、還元主義的な西洋社会の常識が壁となって、西洋人の思想が、本質についていけなかっただけなのだ。 量子力学の創始者たちは、そろって晩年になると東洋思想に惹かれている。 そして、アインシュタインさえも、「それゆえ物質は、場がきわめて緊密な空間の領域によって構成されているものと 非科学的であるという理由で、現象が否定されてしまうことがよくあるが、こう考えて来ると、 (by : 岸ヨシオ) |
||